母は 母親として優秀じゃなくても「毒親」なんかじゃない


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「人見知りで、内弁慶で、『保育園に行きたくない』と言っては、毎日、泣きながら保育園に行っていたんですよ」


わたしが駄目だったことについて

母が話すのを聞くたびに


こころの奥から

母に対する怒りの感情がわきあがってくる……





昨夜ひさしぶりに

怒りがわいてきて

重大なことにきづけた




ん?


あれっ?!


わたしはずっと

母のせいで保育園に行くのが嫌だった」

と思っていたのか?!





だから

「泣きながら保育園に行っていた(社交的じゃなくて駄目な子どもだった)」

と母が誰かに言うたびに

腹が立っていたのだ






幼いときの自分のきもちを言語化してみると・・


「お前みたいに小さくて、運動神経が鈍くて、自分では何もできない子が保育園に行って大丈夫か心配で心配で仕方がない…ってお母さんが言うし


わたしは一人じゃ何もできないから、保育園に行くのは不安だよ…怖いよ…


わたしはみんなよりも劣っているから、人前に出るのが恥ずかしい子どもなんだ… 


先生や大人は、人なつっこくて明るい子がかわいくて、わたしみたいな恥ずかしがり屋でうつむいているような暗くて活発じゃない子はかわいくないんだ…


そうやって、いつもいつも比較されて、自分で自分が恥ずかしくて、こんな嫌なきもちで何時間も過ごすなんて、ほんとうに嫌でたまらない…


保育園なんて行きたくない!」





わたしはこころの奥で

母が、わたしに劣等感を刷り込んだり、社会の中では優れている人だけが認められ愛される… という価値観を植え付けたせいで、わたしは辛い幼少期を過ごしたんだ」

と想って怒っていたことにきづけた





母のせいにして怒っていた



このことを

はっきりときづくことができて

良かった




なぜなら

母は単に「毒親」なんかではなかったからだ




「子どもに劣等感を刷り込む」

という事実だけを単純に切り取ってしまえば

「毒親」というレッテレルを貼ることができるだろうし


そうやって親や先生のせいにするのは簡単だ






しかし


母の立場に立って

母のきもちをおもんばかってみれば


そんなレッテレル貼りなんて

人間のこころをたいせつにできない愛のない行為だとわかる





母親は終戦後まもない第一次ベビーブームに生まれ育った


わたしは第二次ベビーブームの真っ只中に生まれ育った


世の中は

物質至上主義の華々しい競争社会



どれだけ他人よりも効率的か

どれだけ他人よりも優秀か

どれだけ他人よりも認められるか

どれだけ他人よりも愛されるか


そして

どれだけ素晴らしい結果を出せたのか





視点は「他人との比較」だ


「他人」とは「世間一般」であり


「世間一般」の常識から外れている人間は非常識


という人間ロボット化した機械的な価値観






ベクトルはいつだって「他人」に向けられ


「いま自分がどう感じているのか」

という自分自身のこころは置き去りになった






母の実家は新潟平野の米農家で

父と結婚してからも

自分は田舎者だという劣等感やら沢山の劣等感を持っていた





劣等コンプレックスを抱えている親が子育てすれば


「他の子よりも駄目だから心配だ」となるか


「他人よりも優秀になるために、もっともっと頑張らなければ駄目だ」となるだろう





そう


とにかく


母自身が

父自身が

劣等コンプレックスを抱えて苦しんでいたのだし


そんな両親を責めるなんて

全く意味のないことなのだ






しかも



すべては


ここに集約されてしまう




両親はどんなに不器用な形であれ

わたしという存在を最大限に愛してくれていた



「無条件の愛」という無限なるものを観じてしまえば

有限な「形」が歪でも構わなくなってしまう



いびつ

イビツ


歪でもいいじゃないの


人間だもの




ありがとうございます


あいしています




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